月曜の朝、総務の受信箱を開くと、同じ質問がまた3件届いていた。「有給休暇の残日数はどこで確認すればいいですか」「経費精算の領収書はいつまでに出せばいいですか」。返信は毎回ほぼ同じ内容なのに、文章を一から打ち直すたびに10分近くかかっていた。この繰り返しをどうにかしたくて、私は社内向けのAIチャット窓口を立ち上げることになった。
きっかけは同じ質問の山
集計してみると、総務あてのメールと社内チャットへの問い合わせは週平均42件あった。内訳は、有給休暇の残日数確認が15件、経費精算の締め切りや領収書の扱いが12件、社内規程の該当条文を探してほしいという依頼が9件、残りの6件がその他だった。同じ質問への回答をコピー&ペーストで使い回している自分に気づき、これはAIに任せられる仕事ではないかと考えた。
相談を持ちかけると、上司からは「まずは小さく試してみて」と背中を押された。大掛かりな予算どりをする前に、自分の担当範囲だけで小さく始められるのは幸いだった。
実は、問い合わせ対応が一人分に集中したのは半年前の異動がきっかけだった。前任者と二人体制でこなしていた業務を一人で引き継ぐことになり、問い合わせ対応だけで午前中がつぶれる日が続いていた。増員の相談もしたが、来期の採用計画に組み込むまでには時間がかかると言われ、まずは今ある業務量を自分で減らす方法を探すことになった。

導入した仕組みの中身
大掛かりなシステムを新しく組むほどの予算はなかったので、社内規程集と経費精算マニュアルのPDFを、社内チャットに追加できる生成AIツールへそのまま読み込ませる形にした。設定にかかった時間は正味2日、費用は月額数千円のプランに収まった。難しい調整をしなくても、規程集に書かれている文言をそのまま引用して答える分には、思っていたよりあっさり動いた。
ツール選定では3つの候補を比較した。社内のセキュリティ担当から、社外のクラウドサーバーにデータを保存しないタイプに絞るよう指示があり、最終的に社内ネットワーク内で完結するプランを選んだ。価格は当初検討していた別のツールの3分の1ほどで、機能を絞った分、月額費用は抑えられている。
公開の前に、総務メンバー3人で50問ほどのテスト質問を投げてみた。誤答は4件で、いずれも規程集の条文番号を1つ違えるという軽微なものだった。この結果を見て、まずは有給休暇と経費精算の範囲に限定して社内公開することに決めた。

うまくいった最初の2週間
運用を始めて2週間、AIチャットが答えた質問は87件、そのうち総務へ転送せずに完結したのは71件だった。有給休暇の残日数の確認方法や、経費精算の締め切り日といった、規程集に一言一句そのまま書かれている質問には、AIはほぼ間違えずに答えていた。総務の受信箱に届く同種の質問は、この2週間でおよそ6割減っている。
効果を最初に実感したのは、月末の経費精算ラッシュだった。例年なら問い合わせ対応だけで半日つぶれていた最終週が、今年はAIチャットの案内画面を貼るだけで乗り切れた。数字だけでなく、時間の余裕という形でも変化を感じた。
想定していなかった副産物もあった。AIチャットの回答ログを毎週見返す習慣ができたことで、これまで気づいていなかった規程の分かりにくさに気づけるようになっている。同じ内容でも、質問の仕方によってAIが違う条文を引用してくる。その差分を見て「ここは書き方を統一したい」と思った箇所が3か所あった。

止まった場所
止まったのは、規程集に答えがそのまま書かれていない質問だ。「育児短時間勤務と有給休暇を同じ日に使えるか」という質問に対し、AIは規程集の別々の条文をつなぎ合わせ、実際の運用とは異なる回答を作ってしまった。文章としては自然で、読んだ人が疑わずに信じてしまいそうな出来だった点が、いっそう危険に感じられた。
具体的には、ある月曜の午後だった。育児短時間勤務を取っている社員から「有休を半日だけ組み合わせられますか」という質問が届いた。AIは「短時間勤務規程」と「有給休暇規程」をそれぞれ正しく引用しながら、両者を組み合わせた場合の可否については規程に明記がないにもかかわらず「可能です」と断定して答えていた。社員はその回答を信じて申請書を提出し、結局は人事担当が個別に事情を説明し直す事態になった。
もう一つの停止点は、規程が改定された直後だった。経費精算の上限額を今年の4月に変更していたが、AIが参照していたPDFの差し替えを忘れており、2週間近く旧い上限額を答え続けていた。誤りに気づいたのは、申請を却下された社員からの問い合わせがきっかけだ。
以前読んだ『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(新井紀子)にはこう書かれていた。AIは文章の意味を理解しているのではなく、確率的にそれらしい言葉を並べているだけだという指摘だ。この誤答を見て、その一節を思い出した。読んだときは抽象的な話に感じていたが、実際に社内規程で同じことが起きると、指摘の重さが違って見えてきた。

数字が示した限界
この壁は自分の職場だけの話ではなさそうだ。総務省の「令和7年版情報通信白書」によれば、生成AIを「積極的に活用する方針」「活用する領域を限定して利用する方針」と回答した日本企業の合計は2024年度調査で49.7%となり、2023年度調査の42.7%から増えている。総務省「令和7年版情報通信白書」
数字だけを見ると導入は進んでいるように見えるが、白書はこの合計を「積極的に活用する方針」と「領域を限定して利用する方針」の2つに分けて示している。これは実際の利用率ではなく、活用の方針を尋ねた数字だ。私たちの職場は、まさにこの後者に当てはまる。全面的に使いこなす段階までは、まだ距離があると感じている。
自分たちの職場に当てはめると、AIチャットで完結した71件は導入2週間の全質問の82%にあたる。数字だけ見れば白書の言う「積極的に活用する方針」に近い実感だが、実際にAIだけに任せているのは規程集の条文がそのまま使える範囲に限られており、実態としては白書の言う「領域を限定して利用する方針」のほうが近いというのが正直なところだ。

今の落としどころ
今の運用は、AIチャットに「規程集に文言がそのまま載っている質問だけ答える」という制限を掛け、条文をまたぐ判断が必要な質問は必ず「担当者に確認してください」と返すよう設定を変えた。答えられる範囲を狭めた分、転送件数は増えたが、誤った回答が独り歩きする不安は減っている。
PDFの更新忘れについては、規程集を改定した部署が、AIの参照ファイルも同じ日に差し替えるという一文を、社内規程の改定手順そのものに追加した。仕組みを人が運用する以上、更新を忘れない仕組みも人の手で作るしかないという結論に落ち着いた。
担当者への転送メールには、「AIが答えられなかった質問」というタグを自動で付ける設定も加えた。おかげで、総務の中でも誰がどの分野の質問を多く受けているかが一目でわかるようになり、次に規程を見直すべき分野の優先順位づけにも役立っている。
導入から2か月が過ぎた今も、総務あての問い合わせは完全にはゼロになっていない。それでも、同じ質問に同じ言葉で10回答えるという作業からは解放された。次はこの仕組みを、教育担当が抱える研修申込みの問い合わせにも広げられないか、検討を始めたところだ。

半年後に広げた範囲
導入から半年が過ぎ、対象範囲を経費精算と有給休暇の2分野から、慶弔休暇の申請手順と社宅規程の3分野目まで広げた。慶弔休暇は年間の質問数が少なく、規程の条文数も少なかったため、テスト期間を2週間に短縮しても誤答は出ていない。逆に社宅規程は例外条項が多く、テスト段階で誤答が7件出たため、公開を1か月見送って条文の整理から始めた。
この半年でわかったのは、AIチャットが得意な分野と苦手な分野を分けているのは、質問の難しさそのものよりも、規程の条文数と例外の多さだということだった。条文がすっきり整理されている分野ほど公開までが早かった。例外だらけの分野は、結局人が条文を読み込んで整理し直す作業から逃げられない。
担当を引き継いだときは、問い合わせ対応を減らす方法を探すことだけを考えていた。半年経った今は、AIに答えさせる前に自分たちの規程そのものを整理し直す作業のほうが、実は本丸だったのだと感じている。この分け方が最終形かどうかは今も分からないが、少なくとも規程を整理する優先順位だけは以前よりはっきりした。
この半年で、利用者アンケートも一度だけ取ってみた。回答した34人のうち27人が「前より早く回答が得られる」と答えた一方、5人は「結局担当者に聞き直すことが多く、二度手間に感じる」と答えていた。良い評価だけを見て満足しないよう、この少数派の声も次に規程を整理する分野の優先順位へ反映させている。
次に読む
AI外観検査を入れたら「見逃し」は減ったのに、今度は「鳴りすぎる」で困った話。設備側のAI導入で起きた別の誤検知の話で、AIの得意不得意を考える上で読み比べてみてほしい。
理解度クイズを社内教育に使ってみたら、新人ごとにつまずく場所が違った話。同じ「AIを現場に入れてみた」シリーズの教育側の記録として置いている。
社内のIT導入を体系的に整理したい場合は、ものづくりポータルのITツール関連ページも参考になる。
参考書籍
AIが社内の文章をどう読み違えるのかを考えるうえで、手がかりになった本を2冊挙げておく。どちらも問い合わせ対応そのものを扱った本ではないが、条文や文章をAIがどこまで扱えるかを知る助けになる。
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本記事は筆者個人の経験に基づく記録であり、特定のAIツール・サービスを推奨する意図はありません。制度や社内規程に関する記載は執筆時点の運用であり、最新の内容は各社の一次情報でご確認ください。