月末の集計会議で、後輩の一言に手が止まった。「先月の不良件数、紙の検査表とExcelの数字が2件ずれてるんですけど、どっちを正としたらいいですか」。慌てて両方を突き合わせると、たしかに紙の手書き集計とExcel台帳で不良品の件数が違っていた。原因を追うと、現場で書いた紙をExcelへ転記する担当者が体調を崩して休んだ週があり、その週だけ転記が丸ごと抜けていたとわかった。笑い話にできればよかったが、ずれたままの数字はすでに品質会議の資料に載っていた。会議室が一瞬静かになったのを今でも覚えている。
思えば、紙とExcelが両方とも「正式」を名乗るようになったのは、3年前からだった。当時の品質保証部長が、経営会議での説明用にとExcelでの集計を始めたのがきっかけだ。紙だけでは半年分の傾向が伝わりにくいという、素朴な理由だったと聞いている。それがいつしか、Excelの数字がそのまま独り歩きし、紙は現場の控えのような扱いに変わっていった。誰かが意図して二重管理にしたわけではない。便利な方法を積み重ねた結果、気づけば正本が2つある状態になっていた。
「紙」と「Excel」の食い違い
うちの品質保証部では、検査員が現場で紙の検査表に手書きし、月末にその内容を私の部署でExcelへまとめて転記する運用を何年も続けていた。紙は現場の一次記録、Excelは集計とグラフ化のための二次記録という位置づけだったはずだ。それが、いつの間にか両方が「正式な記録」として扱われるようになっていた。監査のときは紙を見せ、経営会議の資料はExcelから作る。誰も悪気なく両方を使い分けていたが、数字が一致している前提が崩れた瞬間、それは「使い分け」ではなく「二重管理」だったと気づかされた。これは現場の検査記録をタブレットへ移すより前、紙とExcelだけで回していた頃の話だ。
その場は、休んだ担当者の代わりに私が転記漏れの週を手作業で埋め直してしのいだ。だが埋め直しながら、ふと怖くなった。今回はたまたま担当者の欠勤という分かりやすい原因があったから気づけたが、原因がもっと地味なミスだったら、誰も気づかないまま数字がずれ続けていた可能性は十分にあった。
二つの記録、何が違うか
整理すると、紙とExcelには互いに譲れない役割があった。紙は検査員が手を止めずにその場で書ける。粉塵や油で手が汚れていてもボールペン一本で済むし、停電やシステム障害の影響を受けない。実際、去年の夏に工場が一時停電したときも、紙の検査だけは滞りなく続いた。一方のExcelは、過去の傾向をグラフにしたり、複数ラインの数字を横並びで見たりするのに向いている。紙だけでは半年分の不良傾向を一目で見せるのは難しい。Excelだけでは、検査員が検査台の前でリアルタイムに記入するのは現実的ではなかった。どちらかを廃止すればいいという単純な話ではなく、「正本はどちらか」を決めないまま両方を並走させてきたことが、今回の食い違いの根っこにあった。

決める基準を3つ置いた
正本をどちらにするか決める前に、私は判断基準を3つだけに絞ることにした。欲張って基準を増やすと収拾がつかなくなるとわかっていたからだ。1つ目は「必要なときにすぐ探せるか」、2つ目は「あとから数字を書き換えられないか」、3つ目は「現場の入力負担が増えすぎないか」。優先順位は探しやすさを最上位に置いた。監査や顧客からの問い合わせで、過去の記録を求められる場面が年に何度もあった。そのたびに、紙の束をめくる時間が一番の負担になっていたからだ。改ざん耐性を2番目、現場負担を3番目に置いたのは、多少現場の手間が増えても正本の信頼性を優先したいという私自身の考えからだった。
基準を決める段階で、後輩からは「使いやすさを基準に入れなくていいんですか」という声も出た。もっともな指摘だったが、使いやすさは3つの基準のどれとも重なる部分が大きく、独立した軸にすると評価がぶれると考えて外した。基準は少ないほど決めやすい、という単純な理由だった。

基準に当てはめてみる
実際に3つの基準へ紙とExcelを当てはめてみると、思っていたより差がはっきり出た。探しやすさでは、紙は月別にファイルされているだけで、特定の日付や工程で絞り込むのに平均で10分近くかかっていた。Excelなら関数で数秒だ。改ざん耐性は逆に紙が強い。手書きの文字を後から書き換えれば筆跡でわかるが、Excelはセルの上書きが誰にでもでき、変更履歴も残していなかった。現場の入力負担は紙が圧倒的に軽い。Excelへの入力を検査員自身に求めると、タブレットの操作に不慣れなベテランから反発が出ることも予想できた。3つの基準を並べて眺めながら、私はどちらも一長一短だと分かってはいたが、それでもどこかで踏ん切りをつけなければならなかった。
弱点は運用で補えるか
基準ごとの評価を並べてみると、探しやすさで大きく勝るExcel、改ざん耐性で勝る紙、という単純な二項対立になった。ここで私は、改ざん耐性の弱さは運用でカバーできないかと考えた。Excelに変更履歴を残す仕組みを足せば、書き換えられても誰がいつ何を直したかは追える。一方で紙の探しにくさは、運用でカバーするにも限界がある。手書きの束をどれだけ丁寧にファイルしても、検索性そのものは変わらないからだ。この時点で、私の中では正本をExcel側に寄せる考えが固まりつつあったが、現場の負担が増える3つ目の基準が気になって、すぐには決めきれなかった。週末を挟んで、月曜の朝にもう一度3つの評価を見直したが、結論は変わらなかった。

正本をExcelに決めた日
迷いを断ち切ったのは、変更履歴を自動で残すシートを試作してみたことだった。マクロを使わず、別シートに「いつ・誰が・どのセルを・何から何に変えたか」を関数で拾わせるだけの簡単な仕組みだったが、これで改ざん耐性の弱さはかなり補えると感じた。試作してみて初めて、頭で考えていたより手間がかからないと分かったのも決め手になった。現場の入力負担については、検査員が直接Excelへ入力するのではなく、これまでどおり紙に書いてもらい、私の部署で転記する運用は変えないことにした。つまり紙は「一次メモ」として残しつつ、正式な記録=正本はExcel台帳に一本化するという決め方だ。
この日、部内のミーティングで「今後は数字が食い違ったらExcelを優先する」と宣言した。ベテランの検査員からは「今までどおり紙も見てほしい」という声も出たが、正本を1つに決めないと今回のような食い違いがまた起きると説明し、納得してもらった。紙を捨てるわけではなく、あくまで最終判断の拠り所を1つに絞るという説明が、思ったより受け入れてもらいやすかった。

決めてから半年たって
正本を決めてから半年が過ぎた。過去の記録を探す時間は、平均10分近くかかっていたのが1分もかからなくなった。変更履歴シートのおかげで、数字を直した記憶がない修正が1件見つかり、原因が入力担当者の単純な打ち間違いだったと早い段階で突き止められたこともあった。基準を「探しやすさ」優先にしたのは正しかったのだろうか。今でも紙の温かみというか、その場で書ける手軽さを惜しむ声は残っていて、完全な正解だったとは言い切れない。それでも、数字が2つ存在して誰も答えられない状態よりは、はるかにましだと感じている。
半年のあいだに、変更履歴シートが実際に役立った場面がもう一つあった。顧客からの問い合わせで、ある月の不良数について「本当にこの数字で合っているか」と確認された際、履歴シートを見せることで、修正履歴が一切なく最初の入力のまま変わっていないと即座に説明できた。紙だけの時代であれば、担当者の記憶に頼るしかなかった場面だ。
反発していたベテラン検査員のひとりは、半年たった今も紙をつけ続けているが、「探すのはExcelでいいわ」と自分から言うようになった。数字を書く手と、数字を探す手は別だという当たり前のことに、実際に運用してみて初めて気づいたのかもしれない。

基準を先に言葉にする
この経験から学んだのは、正本を決める作業そのものより、「決めるための基準を先に言葉にする」ことの大切さだった。基準を決めずに紙とExcelを比べていたら、きっと「どちらも一長一短だから」と結論を先送りにしていたと思う。基準に優先順位をつけたからこそ、譲れないもの(探しやすさ)と運用で補えるもの(改ざん耐性)を切り分けられた。同じように複数の記録が並走している職場は少なくないはずで、正本を1つに決めるときは、まず自分たちにとって何を最優先にするかを紙に書き出すところから始めてみてほしい。優先順位さえ決まれば、あとの判断は意外なほど早く進む。
記録の管理や文書のルールについてもっと基準から知りたい方は、ものづくりポータルもあわせてご覧いただきたい。
参考書籍
正本を1つに決めて仕組みで回すという考え方を整理するのに、以前読んだ『とにかく仕組み化』(安藤広大)が頭に浮かんだ。属人的な判断に頼らず、誰が見ても同じ運用になる仕組みを作るという内容が、今回の「基準を先に決める」という進め方と重なる部分が多かった。
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本記事は筆者個人の経験と判断に基づく内容であり、特定の手法や仕組みの導入を推奨するものではありません。実際の記録管理の方法は、各職場の規程や監査要求事項に照らして判断してください。