「同じ設備は他にもありますよね」。顧客監査の講評会で、監査員が指摘リストの最後にそう付け加えた瞬間、隣に座っていた製造課長の顔が少し曇った。指摘そのものは1つのラインの1台の設備における温度管理の記録漏れで、範囲は明確だった。だが「他にもあるなら見ておいたほうがいい」という一言が、その日の午後からの私の頭を占領することになる。品証課で是正処置の取りまとめをしている立場として、この指摘をどこまで横展開するかを、その日のうちに決めなければならなかった。講評会の後、監査員を見送ってから会議室に戻ると、まだテーブルの上に指摘リストのコピーが1枚残っている。ただの1台の記録漏れが、なぜここまで気になるのか、自分でも整理がついていなかった。窓の外では、いつもどおりフォークリフトが行き交う音が聞こえていて、現場は何も変わっていないように見える。それなのに、この1枚の指摘リストが頭から離れなかった。
迷いが始まった理由
指摘を受けた設備は熱処理ラインの恒温槽で、記録用紙に温度の記入漏れが3件見つかっていた。原因はすでに分かっていて、担当者が交代する時間帯に記入を忘れる癖があったことだ。この設備1台だけを直すなら話は簡単だった。しかし社内には条件の近い恒温槽があと4台あり、同じような交代の仕組みで動いている設備もあれば、そもそも運用方法が違う設備も混じっていた。全部を同じ扱いで横展開すれば安全側には振れる。だが稼働を止める時間とその分の人員のやりくりが重くのしかかってくる。逆に指摘を受けた1台だけで済ませれば楽だが、もし他の設備で同じ記入漏れが後から見つかれば、次の監査で「知っていて放置した」と受け取られかねない。どちらに転んでも角が立つ話で、その日のうちに決め切れる自信はなかった。監査員が帰ったあと、製造課長からは「うちの判断で決めていいものなのか」と聞かれたが、対象範囲の決定はこちらの品質マニュアル上、品証課の判断事項になっている。責任の重さを、あらためて感じた瞬間だった。

選択肢を3つに整理
とりあえず頭の中を整理するために、選択肢を3つに絞ってみることにした。1つ目は5台すべてを対象に横展開し、記入ルールの再教育と当面の稼働停止点検を行う案だ。2つ目は指摘を受けた設備と同じ交代方式で動く2台だけを対象にする案。3つ目は横展開はせず、指摘を受けた1台だけを是正し、他は通常のパトロールで様子を見る案とした。3つ目が一番手間はかからない。ただ、これで押し切るのは正直気が引けた。1つ目は安全ではあるものの、5台のうち2台は運用方法自体が違うため、そこまで手を広げる根拠が弱いとも感じている。3つの案を紙に書き出して眺めているうちに、範囲を先に決めようとしていたこと自体が、そもそも間違った順番だったのではないかと思い始めた。この時点では、まだどれが正解か見えていない。ちなみに過去にも似たような場面はあった。1年前、別の指摘で全数展開を選んだときは、対象が7台にのぼり、生産計画の調整だけで1週間かかっている。あのときの反省が「安易に広げすぎない」という方向へ、自分の判断を引っ張っていた面もあったと思う。

判断基準を先に決める
選択肢を並べただけでは決められないと分かったので、先に判断基準を決めることにした。私が置いた基準は4つだ。1つ目は工程・設備・運用条件が指摘対象とどれだけ同じか。2つ目は同じ不具合が起きたときの影響の重大さ。3つ目は対象を広げたときにかかる稼働停止と人員のコスト。4つ目は顧客への報告に足るだけの説明ができるかどうかだ。基準を先に4つとも紙に書き出してから選択肢に当てはめるという順番を守ったのは、監査講評会でとっさに感じた「安全側に振っておけば無難」という空気に流されたくなかったからだ。基準を先に固定してしまえば、後から選択肢を見て気分で選ぶことはできなくなる。この4つを選ぶ際、最初は「顧客への説明」を外そうかとも考えた。監査対応のための基準ではなく、自社の品質のための基準にすべきだという意見が班内にあったからだ。ただ、説明できない対応は結局は現場にも浸透しないという経験が過去にあり、外さずに残すことにした。

基準に当てて評価する
4つの基準に選択肢を当てはめてみると、見えていなかった差が出てきた。まず条件の近さでは、指摘対象と同じ交代方式の2台は条件がほぼ一致していた。残る2台は記入者が固定で交代がなく、そもそも記入漏れが起きる構造自体が違っている。影響の重大さでは、恒温槽の温度記録は品質保証上の重要記録に当たり、どの設備で漏れが起きても評価は同程度に重い。コストの面では、5台すべてを止めると熱処理ラインの生産計画に2日分の遅れが出る見込みだった。条件の近い2台だけなら半日で収まる計算だ。顧客への説明という基準では、条件の異なる2台まで対象を広げても「なぜそこまで含めたのか」を論理的に説明しづらい。かえって場当たり的な対応に見えるおそれがあった。並べてみると、1つ目の全数展開案は影響の重大さでは強いが、条件の近さと説明のしやすさで弱いことが分かる。表にまとめて眺めたとき、条件の近さと説明のしやすさの2つが、はっきり2つ目の案を指していた。残る2つは割れていて、影響の重大さは全数展開の側に、コストの軽さは1台のみの側に傾いている。4つの基準がそろって同じ案を指すわけではないと、評価を始める前には思っていなかった。

決めた瞬間とためらい
結局、条件の近い2台までを対象にする2つ目の案で進めることに決めた。決め手になったのは、条件の近さという基準が唯一「なぜそこまで含めるのか」を筋道立てて説明できる基準だったことだ。運用条件が違う2台まで広げてしまうと、逆に「どこまでが対象なのか」の線引きがあいまいになると判断している。ただし正直に書くと、この決断にはためらいも残った。もし運用条件の違う設備でも将来同じような記入漏れが起きたら、今回の線引きは甘かったと言われるかもしれない。それでも、根拠のない全数展開よりは、基準に沿った範囲で説明できる決断のほうが筋が通ると考えた。その日の夕方までに製造課長へ報告している。課長からは「その線引きなら顧客にも説明しやすい」という反応があり、ひとまず胸をなでおろした。決裁は品証部長まで通す必要があったが、判断基準を先に書いた1枚のメモを添えたところ、部長からの質問は1つも出ず、その場で承認が下りている。基準を先に固定しておいたことが、この決裁の速さにもつながったのだと、後から気づいた。
その後うまくいかなかった点
横展開そのものは決めた通りに進んだが、うまくいかなかった点も残った。対象にした2台のうち1台は、点検のために半日止める予定だった。実際には部品の一部交換も必要になり、丸1日の停止に延びてしまっている。事前の見積もりが甘かったと言わざるを得ない。もう1つ、対象外にした2台についても、パトロールの頻度を増やす対応にとどめている。パトロール担当者からは「見るだけで直接の是正がないと、現場の緊張感が続かない」という声が上がった。基準に沿って線引きしたつもりでも、対象外にした設備側のフォローが手薄になりがちだという弱点は、決めた時点では見えていない。この点は次に同じような判断をするときの宿題として残っている。もう1つ付け加えると、対象範囲を2台に絞ったことについて、他部署の一部からは「甘いのではないか」という声も実際に届いている。その声に対しては、判断基準のメモをそのまま見せて説明することで、いったんは納得してもらえた形だ。

基準は正しかったか
横展開を決めてから3か月が経つが、対象にした2台でも対象外にした2台でも、記入漏れの再発は今のところ起きていない。結果だけを見れば今回の線引きは外れなかったことになる。ただし、この3か月で正しさが証明されたとまでは思っていない。対象外にした設備でいつか同じ問題が起きたとき、初めて今回の判断基準の甘さがはっきりするはずだからだ。先日の品質会議でこの件を振り返ったとき、班長の1人から「結果オーライだっただけかもしれない」という指摘を受けた。反論はできなかったが、少なくとも判断の過程は1枚のメモに残しておいた。次に同じ場面が来たときに何を見直せばいいかは、これで分かるようになっている。今回の経験から持ち帰った教訓は、横展開の範囲を決めるときは、選択肢を先に並べるのではなく、判断基準を先に固定してから当てはめる順番を守ることだ。基準を先に決めておけば、たとえ結果が外れても、どこで見立てを誤ったかを後から検証できる。範囲をそのときの空気で決めていたら、この検証すらできなかっただろうと思う。
是正処置の記録をどう横展開の判断につなげるかという整理は、ものづくりポータルの是正処置・恒久対策・横展開のページでも扱っている。
参考書籍
判断基準を先に固定してから評価するという進め方は、『数値化の鬼』(安藤広大)を読み返して意識するようになった考え方だ。感覚で範囲を決めそうになったとき、基準に立ち返る習慣は今回の判断でも支えになっている。
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「原因が腑に落ちない」と是正処置報告を差し戻された話:同じ是正処置の現場で、範囲でなく原因の妥当性が問われた話。
秋の内部監査に備えて、猛暑の合間にやっておいた3つのこと:監査そのものへの備え方という点で今回の続きにあたる。
この記事は筆者の職場での判断記録であり、是正処置の横展開範囲や監査対応の正解を示すものではありません。対象範囲の判断は自社の品質マニュアルおよび顧客との取り決めに従って行ってください。