配属初日の朝、更衣室から出てきた後輩は開口一番、「今日、何をすればいいですか」と聞いてきた。前日の監査対応の疲れで帰宅が遅くなり、資料を作る時間を翌朝に回してしまっていた。目の前で後輩に聞かれてから机の引き出しを開けても、印刷したつもりの検査基準表は結局そこになく、私はとっさに答えられなかった。3年前、自分が同じ立場で配属されたときも、先輩から渡されたのは分厚いファイル1冊だけだった。どこから読めばいいのか分からないまま、最初の1週間はほとんど頭に入らなかった記憶がある。
あのときの自分と同じ思いはさせたくないと思い、その場で急きょ3枚だけ選んで渡すことにした。全部を教える時間はないし、全部を一度に渡しても後輩が処理しきれないことは自分の経験で分かっていた。後輩は他部署からの異動で、検査そのものの経験はゼロではないものの、私たちの品証グループの仕事に触れるのは初めてだった。
後輩に聞かれた日
私が担当している品証グループでは、新人にまず現場を1周見せてから、自分の机に案内するのが慣例になっている。ところが今回は前日に別件の監査対応が入り、私自身が朝から現場に出ずっぱりで、後輩を案内する時間が取れなかった。結局、更衣室前で立ち話のまま「まずこの3枚だけ見ておいて」と手渡す形になった。
渡したのは、検査基準の早見表と、不適合が出たときの連絡ルート、それに相談していい人の一覧の3枚だった。どれも私が普段から自分用に更新していたメモを、後輩向けに書き直したものだ。
最初に渡した3枚
①検査基準の早見表
1枚目は、後輩が最初に担当する製品ラインの検査基準だけを抜き出した早見表だった。規格書全体を渡すと該当箇所を探すだけで時間がかかるので、頻繁に確認する寸法と公差だけをA4一枚に収めた。載せたのは、ねじ穴のピッチや板厚など、その週の生産計画で特に検査頻度が高かった5項目だけに絞った。渡してすぐ、後輩は現場に持って行き、検査員に「これで合っていますか」と確認していた。その日のうちに3か所の書き間違いを見つけて、赤字で直して戻してくれたのは正直ありがたかった。作るのに使った時間は30分もかからなかった。普段から自分のノートPCのデスクトップに置いていたメモを、そのままA4一枚に整形しただけで、特別に新しく調べ直したわけではない。日々更新していたものが、結果的にそのまま役に立った形になる。早見表はラミネート加工して検査台の脇に置けるようにもした。1週間もすると、後輩自身が現場での気づきを表の余白に書き込むようになり、私が想定していなかった注意点まで書き加えられていた。
②不適合の連絡ルート
2枚目は、検査で不適合を見つけたときに誰へ連絡するかを矢印でつないだ図だった。配属して3日目、後輩は実際に寸法不良を1件見つけ、この紙を見ながら製造課長へ連絡した。後で聞くと、「誰に言えばいいか分からず現場で固まる」のが一番怖かったそうで、紙を見ながらでも一人で連絡できたことに安心したと話していた。前の職場では不適合を見つけても誰に報告すべきか分からず、結局先輩を探して現場をうろうろした経験があったらしい。実はそのとき私はすぐ横につかず、あえて少し離れた場所から見守っていた。何かあれば口を挟むつもりだったが、後輩は紙の矢印を指でなぞりながら、製造課長の内線番号を自分で調べて電話をかけていた。
③相談していい人の一覧
3枚目は、検査基準や連絡ルートに載っていない疑問が出たとき、誰になら聞いていいかを名前入りでまとめた一覧だった。「こんな初歩的なことを聞いていいのか分からない」という遠慮が後輩の動きを止めることを、自分の新人時代の経験から知っていたので、あえて紙に名前を書いて渡した。この一覧を作る際、先輩の一人からは「そんなの本人が自分で覚えるものだ」と言われたこともある。それでも私は、自分が新人のとき誰に聞けばいいか分からず、結局誰にも聞けないまま同じミスを繰り返した経験のほうを優先した。

3枚を選んだ理由
3枚を選ぶときに意識したのは、緊急性、頻度、命に関わるかどうか、そして誰に聞けばいいか迷いそうな場面かどうかの4つだった。放置すると不良流出につながる情報、週に何度も聞かれそうな内容、安全や法令に関わるので口頭で終わらせたくない情報、誰に聞けばいいか分からず止まりそうな場面、この4つのどれかに当てはまるものだけを紙にした。組織図や社内のルールブックも渡そうか一瞬迷ったが、最初の3枚には入れなかった。理由は単純で、配属からの1週間で実際に使う場面がほぼないからだ。使わない情報を先に渡すと、本当に大事な3枚の重みが薄まってしまうと考えた。頻度を基準にする発想は、実は自分の1週間の記録を数えてみたことがきっかけだった。同僚から自分あてに来る質問のうち、検査基準・連絡ルート・相談相手の3つに関するものが全体の6割を占めていることに気づき、そこから逆算して3枚を決めた。

後から読んだ『トヨタの育て方』にも、新人にはまず「命を守る情報」と「毎日使う情報」を優先して渡すという話が出てきて、自分のやり方が完全な我流ではなかったと分かって少し安心した。逆に、標準作業手順書のような分厚い資料は、最初の3枚には入れなかった。読んでも実感が湧かないまま流し読みで終わることが、自分の新人時代の反省として残っていたからだ。
半年たって分かったこと
3枚を渡した後の2週間、後輩から同じ質問を受けた回数を数えてみると、週3回だった。前回別の後輩を指導したときは、資料をまとめて渡さずに口頭中心で教えていたので、配属直後の2週間で週9回。同じ説明を何度も繰り返していた。

配属からの流れとしては、初日に3枚を渡し、1週間は現場に同行して確認し、2週目から単独対応に切り替え、1か月ほどで独り立ちという形になった。

独り立ちまでの期間も、前回の後輩が3か月かかったのに対して、今回は1か月ほどで一人で検査ラインを回せるようになった。もちろん本人の飲み込みの早さも大きいが、最初の数日で「何が起きたら誰に言うか」だけでも紙で固定できたことは、思っていた以上に効いていたと感じる。私たちの職場で「独り立ち」と呼んでいるのは、検査記録の作成から不適合の一次判断、軽微な是正処置の起票までを、私が横にいなくても一人で回せる状態を指す。今回の後輩は配属から3週間で検査記録の作成が一人でできるようになり、5週目には不適合の一次判断も任せられるようになった。是正処置の起票だけは書き方に癖が出やすいため、今も月に一度は私が目を通している。

もちろん順調なことばかりではなかった。配属から2か月目、後輩が①の紙を確認せずに、たまたま近くにいた別部署の先輩へ検査基準の解釈を聞いてしまい、少し違う答えが返ってきたことで現場が一瞬混乱した場面があった。「まず①、それでも分からなければ③の一覧の人に聞く」という順番がまだ体に入っていなかったのが原因で、その日のうちに口頭で順番を付け加えた。
後輩を指導するようになって、自分がこれまで無意識にやっていた判断の多くを、実は誰にも説明していなかったことに気づかされた。3枚を作る作業は、後輩のためというより、自分の頭の中を一度紙に出す作業でもあったと思う。一方で、3枚だけでは足りない場面もあった。半年たった今も、月に1、2回は「これはどの紙にも書いていないので聞きます」と後輩から質問が来る。そのたびに、3枚を更新するかどうかを考えている。増やしすぎると最初の狙いである「まず3枚だけ」が崩れるので、今のところは4枚目を作らず、既存の3枚に一行ずつ書き足す形で対応している。先週も、検査記録の保管期間について後輩から質問が来て、②の連絡ルートの紙の余白に一行だけ書き足した。増やす代わりに書き足す、というやり方を続けているうちに、3枚とも配属当初より少しずつ文字が増え、私だけの記憶に頼らない形に育ってきた。3枚という数を保ったまま更新を続けられているのは、今のところ狙いどおりだと思っている。
先日、後輩が新しく入った実習生に、自分の3枚を見せながら説明している場面を見かけた。渡した本人よりも先に、受け取った側が次の誰かへ手渡していく形になっているのを見て、紙を絞ったことは間違っていなかったと思えた。
結局、私は3年前に自分がしてほしかったことを、今回やっと後輩にできた気がしている。
後輩育成や力量管理の基準づくりについては、ものづくりポータルでも整理している。
参考書籍
本文で触れた1冊。新人に最初に何を渡すかを考えるときの手がかりになる。
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次に読む
- QC検定の勉強を、現場の実務からやり直した話:現場の実務から学び直すという視点が、今回の育成の話と重なる。
- 「原因が腑に落ちない」と是正処置報告を差し戻された話:後輩に早く伝えたかった「差し戻されない書き方」の土台になった話。
今回の記録は、私が担当した後輩1名との経験に基づくものであり、部署や職種によって最適な3枚は変わるはずだ。それでも、渡す枚数を絞ることと、緊急性・頻度・重大性で選ぶという考え方自体は、他の引き継ぎ場面にも応用できると思っている。