- 期間
- 提出が伸びなかった3年間と、書式を変えてからの3か月
- 対象
- 月次ヒヤリハット提出件数・現場30人(アンケート回答25人)
- 体制
- 品質保証1人(私)+現場30人・聞き取りは班長3人
- 結論
- 書式を4項目に削り匿名箱を置いたら、提出は月0〜1件から3か月目に8件へ増えた。
月次の安全衛生会議で、司会が資料をめくる音だけが響いた。今月のヒヤリハット提出件数、0件。先月も0件、その前も1件。品質保証の担当になって半年、この数字が二桁になったところを見たことがない。会議室の空気が少し重くなって、誰かが小さく「またか」とつぶやいた。工場長からは「制度があるのに使われていないなら、制度が悪いのか、現場が悪いのか、はっきりさせてほしい」と言われた。
今月もまた0件だった
会社のヒヤリハット制度は3年前、労働安全衛生の年次方針の一環として導入された。掲示板には「小さな気づきが大きな事故を防ぐ」というポスターが貼られている。制度としては存在するが、実際に紙が出てくることはめったにない。目標は月5件、実績は月0〜1件で3年間ほぼ横ばいだった。厚生労働省の資料では、1件の重大事故の背後に29件の軽傷、300件のヒヤリハットがあるとされる(職場のあんぜんサイト)。この比率をそのまま自分の現場に当てはめるなら、月0〜1件という数字はむしろ異常に少ない側だった。
過去3年分の議事録をさかのぼって数えると、提出件数の合計は42件、平均すると月1.2件で、そのうち半分近くが年度末の安全パトロール直後に集中していた。つまり普段はほとんど動いていない制度が、パトロールという外部の目が入る時期にだけ、取り繕うように動いていたことになる。
最初はポスターを増やした
会議の直後、まず私がやったのは掲示板のポスターを新しいデザインに変えることだった。イラストを大きくし、「あなたの気づきが命を守る」と文言も強めた。1か月後の提出件数は0件のままだった。次に朝礼で口頭のお願いを2週間続けたが、これも変わらなかった。
掲示物と呼びかけを増やすやり方は、原因を確かめずに対症療法だけを重ねていたのだと、後になって気づいた。
現場に直接聞いてみた
ポスターと呼びかけが効かなかったところで方針を変え、まず現場の班長3人に個別に話を聞くことにした。アンケート用紙を配るのではなく、休憩時間に雑談のような形で「なんで書かないんですか」と単刀直入に聞いた。最初は「特に危ないことがないから」という答えが多かったが、粘って聞いていくと違う理由が出てきた。書式が面倒、書いても対策会議に呼ばれて責められる、そもそも何を書けばいいのか分からない、の3つに集約された。数値で確かめるため、その後2週間かけて現場30人に匿名アンケートを配り、25人から回答を得た。回答用紙は名前を書かず、社内便のポストとは別の箱に入れてもらう形にした。設問は複数選択式にし、自由記述欄も1行だけ設けた。

棚の奥から出てきた話
聞き取りの途中、ある班長がふと「実はこの前、危なかったことがある」と話し始めた。フォークリフトが通路の角で歩行者とぎりぎりすれ違った場面で、当人は「特に何も起きなかったから」と提出していなかった。詳しく聞くと、同じ角でヒヤリとした話は他に2人からも出てきた。3人とも別々のタイミングで同じ場所で同じような経験をしていたのに、誰も報告していなかったため、危険な交差点として認識されていなかった。制度が機能していれば、1件目の時点で通路の表示や一時停止のルールを見直せていたはずだった。
書式が17項目もあった
手元にあったヒヤリハット報告書を数えてみると、記入欄が17項目あった。発生日時、発生場所、作業内容、関与した設備、関与した人数、直接原因、間接原因、背後要因、再発防止策の短期・中期・長期、報告者の所属・氏名・押印。安全担当としては網羅性を追求した結果だろうが、現場の作業員がラインを離れて書く内容としては重すぎた。25人中18人が「項目が多すぎて途中でやめた経験がある」と答えていた。実際に自分で空欄を埋めてみたところ、丁寧に書くと20分近くかかった。

対策会議で吊るし上げられた話
もう一つの理由の方が根が深かった。過去にヒヤリハットを提出した作業員のうち数人が、その後の対策会議に呼び出され、「なぜ気づかなかったのか」「なぜもっと早く言わなかったのか」と、原因究明のつもりの質問が結果的に個人への追及になっていた。ある班長は「一度呼ばれてから、二度と書く気になれなかった」とはっきり言った。詳しく聞くと、その班長が呼ばれた会議では、上司から「なんでその場で止めなかったんだ」と続けて2回聞かれ、答えに詰まったところで別の管理職が「次からは気をつけるように」と締めくくったという。悪意があったわけではないが、本人には叱責としか受け取れなかったそうだ。
会議の議事録を古い順に読み返すと、最初の1年は「本人の不注意」で締めくくられている回が多く、2年目以降は提出そのものが減っていた。良かれと思って開いていた対策会議が、報告そのものを潰していた。
言えない空気の正体
聞き取りを整理すると、悪循環の形が見えてきた。誰かが報告する。対策会議で個人的な追及を受ける。周囲がそれを見ている。次から誰も書かなくなる。件数が減る。件数が減ると「うちの現場は安全だ」という誤解まで生まれる。実際には危険が減ったわけではなく、報告する人がいなくなっただけだった。フォークリフトの角の件も、この循環の中で3回とも埋もれていたのだと分かった。

書式を4項目に削った
最初に手をつけたのは書式だった。17項目を、発生日時と場所、何が起きたか、そのとき自分はどうしたか、直したほうがいいと思うこと、の4項目まで削った。所要時間の目安は3分と明記した。安全担当の上司には「網羅性が落ちる」と一度反対されたが、詳細な原因究明は後から聞き取ればいいことだと説得し、まず1か月試すことで合意した。
実際にフォークリフトの角の件を新しい書式で自分で書いてみたところ、4項目でも状況は十分に伝わり、所要時間は2分半だった。旧書式で同じ内容を書いたときは18分かかっていたので、その差を上司に見せたことも説得材料になった。
匿名提出も選べるようにした
あわせて、氏名を書かなくても提出できる箱を休憩室に置いた。匿名の場合は対策会議への呼び出しをしない、と社内メールで明文化した。実名で出した人にも、対策会議は原因を一緒に考える場であって誰が悪いかを決める場ではないと、毎回冒頭で説明することにした。最初の週に置いた匿名箱には、初日から1枚入っていた。中身はフォークリフトの通路に関する内容だった。
朝礼で共有する仕組み
心理的なハードルをさらに下げるため、毎週月曜の朝礼で「先週のヒヤリハット」を1件だけ、担当者が匿名化して紹介する時間を5分作った。批判ではなく、これは自分にも起きそうだと思ってもらうための共有だと最初に伝えた。共有する事例は毎回、提出者の同意を取ってから選ぶことにした。3週目に紹介したフォークリフトの件では、朝礼のあと別の班から「うちの通路にも似た場所がある」という声が上がった。

3か月で8件まで増えた
施策を始めてからの3か月間、月ごとの提出件数を数えた。1か月目は2件、2か月目は5件、3か月目は8件だった。匿名提出は3か月間で計6件、そのうち対策会議への任意参加を自分から申し出た人が2人いた。アンケートを取り直したところ、「書式が面倒」と答えた人は14人から4人まで減った。フォークリフトの通路には、3か月目の時点でカーブミラーと一時停止の表示を追加している。
内訳を見ると、8件のうち3件が搬送経路、2件が工具の置き方、残り3件が薬液・洗浄剤の取り扱いに関するもので、いずれもこれまで一度も報告に上がっていなかった種類の内容だった。

件数が増えて良かったのか
数字だけを見れば、施策は効果があったと言える。ただ、件数が増えたことが本当にリスクを減らしたことになるのかは、正直まだ分からない。件数が増えたのは危険そのものが増えたからではなく、単に言いやすくなっただけかもしれない。それでも、報告が上がってくること自体が、現場で何が起きているかを知る唯一の手がかりだとは思っている。山本七平の『「空気」の研究』を読み返したとき、「言えない空気」というのは制度の外側にある問題ではなく、制度の運用そのものが作り出すことがあるのだと、あらためて感じた。自分たちの対策会議も、気づかないうちに同じ空気を作っていたのかもしれないと、今も時々振り返る。
書式を削ったことも、匿名箱を置いたことも、突き詰めれば技術的な工夫ではない。報告した人が損をしない仕組みに変えただけだった。次に数字が伸び悩んだときは、また書式や掲示物をいじりたくなるかもしれないが、まずは現場に話を聞きに行くところからやり直すつもりでいる。
ヒヤリハット報告の基準や運用の考え方は、ポータル側のヒヤリハット報告の手引きにまとめている。書式や運用ルールを見直すときの参考にしてほしい。
参考書籍(PR)
報告が上がらない現場の「空気」がどう作られるのかを考え直すきっかけになった1冊。【PR】「空気」の研究 (文春文庫) [ 山本 七平 ]
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- 形骸化していた品質会議を立て直そうとしてみた話 — 会議の運用を変えて心理的な負担を減らした経緯は、今回の対策会議の見直しと同じ発想でつながっている。
- 「原因が腑に落ちない」と是正処置報告を差し戻された話 — 原因究明の場が個人への追及に変わってしまう危うさは、この記事の是正処置報告のやり取りにも通じるところがある。
※本記事は筆者個人の現場経験に基づく一人称の記録であり、特定の企業・業界の統計を示すものではありません。制度設計の参考情報としてご利用の際は、自社の状況に合わせてご確認ください。